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「50周年記念LIVE 2017~2018」名古屋

2018-01-08
愛知芸術劇場

沢田研二、本日が2018年仕事始めです。機嫌良く歌っていきたいと思いま〜す。

タローくんに「ねぇなんであんなに短いの?なんで?なんで?なんで?」と聞かれました。

日本一のバンドになろうと誘われて入ったタイガースが本当に日本一の人気者になり、タイガースはきっとずっと続くんだろうな、と子供心に思っていました。ところが、トッポが抜け、シローが入り、ピーが辞めたいと言い出した。サリーとタローとシローの3人で話し合いをして、赤の他人を入れるくらいなら解散しようと決まり、私にはその結論だけが伝えられました。「えーそうなん?」人生で一番絶望的な「そうなん?」でした。どうしていくべきかわからない。事務所の誰かが何か言ってくれないかななどと思っていたことを覚えています。

その後に、サリーが「スーパーグループを作ろう」と声を掛けてくれました。外国だったらうまくいったかもわかりませんが、スーパーグループは掛け算どころか足し算にもならなくて、割り算になってしまったんです。PYGは営業的に全く結果を残せないまま、解散することもなく今にいたります。大口さんは鬼籍に入ってしまいましたが、名優・萩原健一、怪優・岸部一徳、天才・大野克夫、鬼才・井上尭之、そして私、沢田研二の全員が今も第一線で頑張っております。

下手クソだと言われていましたが、人気だけはあったのでソロになってからも売れてしまって私は調子に乗っていました。調子に乗って悪さをして、謹慎しました。謹慎をしたのは芸能界では初めてじゃないかと思いますが、そこはちょっと自慢に思っています。転んでもタダでは起きないのが沢田研二です。その1ヶ月の謹慎期間中、毎日1本か2本放送されていた歌番組を全部観ていました。そして考えてました。どうすれば私のことが好きな人たちだけでなく、私のことを気持ち悪いと思ってる人たちにも歌を届けることができるのか。

「そんなことはやめておいた方がいい」「なんでそんなイヤらしい格好するの?」いろいろな声が聞こえてきましたが、全て聞き入れずやりたいことをやりました。ハーケンクロイツまで使いました。フランソワーズ・モレシャンさんからは「沢田さん、これはとても危険なことなのよ(声真似)」。黒柳徹子さんからは「こんなことは絶対にやってはいけません(声真似)」と言われて、それだけはバツ印に変えましたが。

だんだんとテレビ番組が減って、レコードがCDになるとあまり売れなくなってきました。歌を聞いてもらえないのなら、こちらから全国を回って生の歌を聞いてもらいたいと思いました。私は外国かぶれのようなバタ臭いイメージがあったので、地方の人たちにはあまり受け入れられていなかったので、最初は全然会場が埋まりませんでした。でも、そんなところでも沢田研二という名前だけは知ってくださっている。それが私にとってはとても幸運なことでした。そしてコツコツとコンサートを続けていると少しずつお客さんが増えてくるようになりました。

売れている時には鼻で笑っていたような人たちが「近くに来てるんやったら観に行ったろか」と少しずつ少しずつ来てくれるようになったんです。そしてついには満員になる会場も出てきました。一体どういうことでこういうことになったのか分析してもわかりませんでしたが、だんだんとお客さんが増えてくるようになりました。ただ言えることは、歌い続けてきたというこの一点が今につながっているのではないかと。

ピラミッドでいうところの頂点がめちゃめちゃ売れててテレビに出まくって歌ってる人たち。私もそこにいたことがある。でもその下には、テレビに出てなくても、ヒット曲が出なくても頑張って歌い続けてる歌い手さんがたくさんいる。私はそういう歌い手になろうと思った。今さら銀行員にはなれない。学校の先生にもなれない。俳優にもなれない。俳優はやったけど、俳優になろうとは思わなかった。歌が好きだったからです。ずっとずっと歌を歌い続けたいと思ったからです。

もちろん、またヒット曲を出したいという希望を捨てたわけではありません。でもこうして、会場に足を運んでいただかないと聞いてもらうことができないところに、しかもこんな大きな会場が満杯になるほど来ていただくことの方がヒット曲が出るよりも幸せなことなんです。ひとえに皆さんのおかげなんです。ありがとうございます(上手)。ありがとうございます(下手)。ありがとうございます(中央)。69になるまで続けてこれるなんて思いもしませんでした。来年は70。これくらい元気なら来年も歌い続けられるでしょう。来年、70になった時のための会場はすでに整えてあります!


 

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